福岡観世会にて「通小町」(シテ武田志房氏)と「遊行柳」(シテ坂口信男氏)を打つ。この2曲は今の自分の年齢や芸位を思うにつけ、手が届かない訳ではないが似つかわしくない曲。特に遊行柳などは藤田大五郎先生や師匠(親父)級の先生方が務められて成り立つ。老翁物と呼ばれる老女物に続く能役者が最後のほうに目標とする曲趣。「手が届かない訳ではない」と言ったのは技術的な面、息遣いや声色・間・音色などをそれらしく見せる・聴かせる、ある程度の技術の工夫はできても、それはあくまでも物真似であって、世阿弥の言う「木造の物真似」とは程遠いものである。私は立ち方(シテ)のみならず、地謡や囃子方、舞台上に上がっているすべての存在は「役者」と呼ぶのが相応しいと思っている。役者が役者として生きられるのは所詮舞台の上だけである。真摯に稽古と舞台を積み重ねて生きていけば、なんとか遊行や姨捨といった曲を「それらしく」見えるのではないか?自分の役者としての将来に対する甘い期待!
けれども信ずるところはそれしかない!役者というのはそういうもんでいいんじゃないっすかねぇ!?
